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天井桟敷 (劇団)[てんじょうさじき] 天井桟敷 (てんじょうさじき)は、かつて日本に存在したアングラ劇団。寺山修司主宰で演劇実験室を標榜した演劇グループ。状況劇場の唐十郎、早稲田小劇場の鈴木忠志、黒テントの佐藤信と並び、アングラ四天王と呼ばれ、1960年代後半から1970年半ばにかけて、小劇場ブームを巻き起こした。 == 概要 == 天井桟敷という劇団名はマルセル・カルネの映画『Les Enfants du Paradis(邦題:天井桟敷の人々)』に由来するが、寺山曰く、「(好きな演劇を好きなようにやりたいという)おなじ理想を持つなら、地下(アンダーグラウンド)ではなくて、もっと高いところへ自分をおこう、と思って『天井桟敷』と名付けた」〔週刊平凡パンチ、1967年5月29日号、P.38から引用〕。 創立時のメンバーは寺山の他に、九條映子(当時寺山夫人)、高木史子、東由多加、横尾忠則、青目海、大沼八重子、濃紫式部、小島嶺一、斉藤秀子、支那虎、高橋敏昭、竹永敬一、桃中軒花月、萩原朔美、林権三郎の全16人〔資料によっては、創立時のメンバーを寺山修司、九條映子、高木史子、東由多加、横尾忠則の5人とするものもあるが、『「天井桟敷」創立の人々』と銘打たれた全16人の記念写真が現存しているため、ここではその立場を取る。〕。『書を捨てよ街へ出よう』などの一連の著作により、若者の間で「退学・家出の扇動家」として認識され人気を得ていた寺山が主宰していること、また劇団創立時のメンバー募集の広告が「怪優奇優侏儒巨人美少女等募集」だったことなどから、設立から長い間「一癖も二癖もある退学者や家出者が大半を占める」という異色の劇団になった。後に松田英子やカルメン・マキが加入していることからも、60年代・70年代という時代の先頭を走っていた劇団の勢いがうかがわれる。 旗揚げ公演『青森県のせむし男』の時から「見世物の復権」を謳い、創立3年目の1969年には、日本初のアングラ専用劇場「天井桟敷館」を設立。しかし、設立後まもなく市街劇、書簡演劇、観客参加型の演劇が増え始め、またこの頃から、西ドイツを皮切りにアメリカ、フランス、オランダ、ユーゴスラビアなどでも評価を受けるようになり、海外公演(あるいはそれぞれの国の俳優による上演)が増えるようになった。 寺山の他プロジェクトにも密接に関わり、天井桟敷の公演がのちに映画化されることもあった。「百年の孤独」(ガルシア・マルケスの同名作品を下敷きにした舞台作品)はのちにリメイク・改題され、映画『さらば箱舟』(寺山の遺作。死後に公開された)となっている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「天井桟敷 (劇団)」の詳細全文を読む
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